刀折れ矢尽き果てて泣き落とし

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刀折れ矢尽きて、戦う手段をすっかり使い果たしてしまうと、残るは泣き落としである。

もっとも、『徒然草』80段には「武器を使い果たし、矢が尽きても、最後まで降参することなく、気持ちよく死んだ後に、初めて勇者と言われるようになる」という内容の文が書かれている。

戦さとはかかわりがない‘法師’の言うことだから、その通り捉えなくてもよいだろう。

’泣き落とし’は、子供の世界でよくみられる。

大げさに泣いて、親や、周囲の人の同情を買い、自分のして欲しいことを聞いてもらうための行為である。

自分の意志を押し通そうという、強い気持ちの持ち主である可能性も高い。

見方を変えれば、粘り強さがある子ども、ということでもある。

一方、子どもに泣き落としに親が根負けすることを繰り返し、親は泣けばなんでもいうことを聞いてくれる、と誤った信号が植え付けられた子供もある。

そのまま大人になれば、わがままで社会に適応しにくい人物になる可能性が強い。

小説『檸檬』(れもん)の作家梶井基次郎は、第三高等学校を二度落第している。

どうしても卒業したかった梶井は、教授をだますことを計画した。

教授にいかに自分の病が重く、かわいそうな苦学生かを切々と訴えたのだ。

泣き落としは成功し、無事卒業できた。

泣き落としも、それなりに効果があることもうかがえる。