’清貧’という言葉が、注目された時期があった。
清貧とは、貧乏だが、心が清らかで行ないが潔白であることということで、多くを求めず、貧乏に安んじていることを表している。
所有に対する欲望を制限することにより、精神的な豊かさを生み出すという、考え方である。
したがって、‘貧乏’とは違う。
清貧の場合、経済的にはゆとりが有っても、‘物質的’な豊かさをあえて求めず、精神的な豊かさを求めるのである。
「たくほどは風が持て来る落ち葉かな」という、良寛さんの歌のように、ものを持たない暮らを、ものに執着しない生き方を求めて自由に生きることである。
しかし、貧乏の場合は、お金がないから仕方なく貧しい暮らしをせざるをえない、ということだ。
孟子に、「恒産無くして恒心無し」という言葉が残されている。
‘恒産’とは、一定の財産や安定した職業のことであり、‘恒心’とは、人間としてもつべき道徳心や良心のことである。
孟子は、「安定した収入がなくても常に定まっている正しい心を持つということは、ただ学問教養のある人だけができるのであり、一般庶民なら安定した収入がなければ定まった心を持つことは無い」、と言っている。
恒産がなくても恒心をもてる者は、立派な人物だけである。
普通の人々は恒産がなければ、恒心をもてない、という意味である。
「衣食足りて礼節を知る」ということだろう。