夏の夜は、空を彩る花火に心が躍る。花火というものは、その存在だけで特別な感情を呼び起こす。近くで見ると、その迫力と音の響きが心に刻まれる。
しかし、遠花火には、また別の情緒がある。華やかな光を撒き散らしたあと、やや遅れてドーンと伝わってくる音に、先程の華やかさはまったくない。あのかすかに聞こえる音、消えかけた光、その全てが哀愁を帯びている。
正岡子規が詠んだ「音もなし松の梢の遠花火」という俳句は、遠花火の持つ哀しさを見事に表現している。子規は、日清戦争からの帰国中に病に倒れ、その後、長期にわたり病床での生活を送った。病室から松原越しに見た花火大会の様子が、この一句に込められているという。
音のない花火を見つめながら、子規は自身の人生の儚さを感じたのかもしれない。松の梢を越えて見える遠花火は、ただ美しいだけではなく、その光景に人生の一抹の寂しさが映し出されているようだ。病床の灯りと遠花火のコントラストは、生と死、希望と絶望という対比を際立たせる。
花火の音が遠くに消えていくように、私たちの記憶の中にも、いつしか遠ざかってしまった思い出がある。そんな思い出を胸に抱えながら、遠花火の音に耳を傾けると、心に染み入るような哀愁が漂ってくる。
それは、かつて近くに感じていたものが、時間とともに遠ざかってしまったときの喪失感かもしれない。あるいは、実現しなかった夢や過去の思い出が、心の中で薄れつつあることに対する哀愁かもしれない。そんなとき、人は遠花火のかすかな音を聞きながら、自らの内なる感情と向き合うことになるのだ。
遠花火の音は、近くで見る花火とは異なる情緒を持ち、その音には哀愁が漂う。正岡子規の俳句に詠まれたように、遠花火は私たちの心に深く響く存在である。遠花火が持つ哀しみと静けさは、私たちの心に穏やかな時間をもたらす。
遠花火は、日常の中で見失いがちな大切なものを思い出させてくれる存在でもある。遠花火は、私たちに「遠くの自分」を見つめる機会を与えてくれるようだ。遠花火の音は、夏の夜空に打ち上げられた「心の打ち上げ花火」なのかもしれない。