荘子は、胡蝶の夢のたとえで、ひらひらと飛んでいた夢を見たが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、と言っている。
デカルトも、もしかしたら自分は今、夢の世界にいるかもしれないと疑っている。
夢の世界と現実の世界の区別ははっきりしない。
その中で、夢を見ている自分は存在しているのだから、夢の中か目覚めた現実の世界にいるのかに関わらず、自分というものは存在していることになる。
だから、自分の存在を疑うことはできない。
しかし、私たちは今という世界に、偶然存在しているだけかもしれない。
時間ということを考えると不思議でしょうがない。
’今’と思った瞬間、すでに今ではなくなって過去になっている。
私たちは、‘今’生きてこの世界にいるはずなのだが、どうもはっきりしない。
全く夢うつつの中で生きていると考えざるを得ない。
こう考えていると、自分の存在さえ疑わしくなってくる。
私の座右は、華厳経の「一切唯心造」という言葉である。
この世の苦も楽も、すべて自分が心の中で作り出しているだけだという意味に捉えている。
自分の気の持ちようで、世の中は住みやすくも住みにくくもなるということだ。
上手く心をコントロールして、住みやすい世の中で生きていたいものである。