凧は糸によって引っ張られ、風に抵抗することによって空に浮いている。
地面で糸を引っ張る人がいるから飛べるのだ。
したがって、糸が切れると制御不能となり、落下しながらどこかへ飛んでいってしまう。
糸が切れたという表現を、自由度が高いという意味でポジティブな例えとして使っている人が少なからずいる。
しかし、糸につながっていないということはイコール自由ではない。
むしろ風雨などに翻弄され、自分の思い通りに飛ぶこともできず、自由度もさらには安全性も喪失した状態である。
自由とは、外的束縛や強制がなく、心のままであることである。消極的な「…からの自由」と、積極的な「…への自由」という意味がある。
日本語の“自由”という言葉は、福沢諭吉がlibertyを「自らをもって由となす」と訳したのがその始まりとされている。
すなわち、自由とは、他人に与えられたものではなく自らの意思や考えを行動の理由とすることを意味する。
仏教のばあい、自由の「由」は‘よる’‘もとづく’という意である。
他に由らず、独立して自存すること、即ち‘自らにもとづく’‘自らによる’ことが“自由”である。
晩年のブッダは、弟子達に「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」と教えた。
自由は、“自ら”があって初めて存在することである。