ゴミ出しは、細かく分別しなければならず、種類ごとに収集日も違うので、つい忘れがちである。
古代の都市は、ごみの層の上に積み重なるように建設されており、すでにこの時代もごみの処理に手を焼いていた様子がうかがえる。
日本では、縄文時代には、住居地区から離れた場所にごみの捨て場を定めており、貝塚として考古学の宝箱になっている。
江戸時代になり、江戸や大坂で都市が発展し,増え続ける人口によってごみの量は増加した。
幕府は,悪臭や美観の問題から堀や川,町単位に作られていた空き地へのごみの投げ捨てを禁止する触れを出し,不法投棄の防止に努め,ごみ捨て場も設置した。
例えば、1655年(明暦元年)にごみは永代島に捨てるように命じている。
これに伴って、江戸のごみ処理は、収集→運搬→処分という今も続く流れが出来た。
以来18世紀半ばまで,江戸周辺だけでもごみ捨て場は10か所にも及び,延べ約125haの湿地が埋め立てられた。
また,下肥運びによるし尿のリサイクルをはじめ,桶を修理するたが屋,古着屋,古鉄買い,紙屑買いなど修理・再生・回収の専門業による循環型社会が形づくられており,究極の‘リサイクル型社会’が形作られていた。
江戸時代末期、外国人が書いた文献によれば,江戸の町の清潔さは,当時の欧州の状況に比べ非常に際だっていたらしい。
日本人の清潔好きは、今も引き継がれているようだ。