行雲流水ひっかきまわし生きてゆく

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久しぶりに、鴨長明の『方丈記』を読んだ。

「行く川のながれは絶えずしてしかも本の水にあらず」から始まる、わが国随筆文学の代表作の一つである。

しかし、読むたびに鴨長明のように、世間を捨てては生きていけないと思う。

行雲流水という言葉があるが、空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで自然の成り行きに任せて行動するたとえとして使われる。

もとは、鴨長明が生きた時代とほぼ同じころに、中国・北栄の文豪蘇軾(そしょく)が、文章を書くときの心得として「空を行く雲や流れる水のように、文章にも初めから決まった形があるわけではない。行くべきところに行き、止まるべきところで止まるのだ」と語ったことから生まれた言葉である。

つまり、ものごとに執着したり、一定のカタチに縛られていては、相手の心を打つ素晴らしい文章が生まれない、ということを文章書きの心得と述べたものだ。

この言葉から、一定の形をもたず、自然に移り変わって行く、よどみがないことのたとえとして使われるようになった。

鴨長明のように、拗ねて世間を隔絶した世界で生きていくのはネガティブな気がする。

『徒然草』を書いた兼好法師のように、しっかり世間と接点を持ちながら、それを冷ややかな目で眺めて愉快がっている、そんな生き方をしていきたいものだ。

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