‘悪筆’で悩んでいる人は多い。
悪筆とは、単に字が下手で、字の形や大きさ、バランスなどが整っていない字を指す。字が上手く書けないことは誰にでもあることであり、練習不足や個々の身体的特徴に起因することもあるため、一概に否定されるべきではない。
一方、乱筆とは、文字を乱暴に書きなぐることであり、いわば心がけの問題である。乱雑に書かれた字は、読み手に対する配慮や誠意が感じられず、不快感を与えることがある。
つまり、悪筆は字の上手下手に関わる問題だが、乱筆は態度やマナーに関わる問題と言えるだろう。
悪筆は、生来の物だから許せるが、乱筆はいい加減な精神状態がうかがわれて、許せない。
悪筆家では、早稲田大学創立者の大隈重信が有名である。彼は、生涯字を書かないと誓っていたが、閣僚になった時にはさすがに署名しなければならず、それが公開されているが、間違いなく悪筆だと思う。
作家の太宰治は、手紙のやり取りだけで構成された作品『虚構の春』の中で、「乱筆乱文多謝」と記している。
「乱筆乱文多謝」という言葉は、本来「乱筆多罪」という仏教用語の誤用である。乱暴に書いた字は罪を生むという意味であり、字が下手であることを謝罪する言葉ではない。
太宰治は、自分の字が乱れていることを自嘲的に表現したらしい。太宰治らしいユーモアと人間味が感じられるエピソードである。そして、この誤用がそのまま世間に広まった。
悪筆であってもその人の能力や人格を否定するものではない。字が下手でも丁寧に書くことで、相手に対する敬意や真摯な気持ちを伝えることができる。
逆に、字が上手でも乱雑に書かれた字は、その人の態度や心構えを疑われることがある。
字を書くことは、コミュニケーションの一環であり、相手への思いやりが求められる。字が下手でも、丁寧に書かれた文字には誠実さや真心が表れる。
字を書く際は、その字がどのように受け取られるかを常に意識することが大切である。乱筆は、単に字が下手であること以上に、相手に対する配慮が欠けていると見なされる可能性がある。
したがって、字を書く際には、できる限り丁寧に、相手に対する敬意を持って書くことが重要である。
これからも、字を書く際には丁寧さを心掛け、相手への思いやりと敬意を持って筆を進めていきたい。
字の上手さよりも、心のこもった丁寧な字が何よりも大切なのだ。