母は、九十歳近くなったころ、自室でつまずいて足を痛め、しばらく歩行困難な時期があった。
その間、ほぼテレビが相手の生活だった。
一日中、誰もいないところでテレビだけを見ていたら、今置かれている空間と時間の認識が、あいまいになってくるようだ。
ずいぶん昔に亡くなった父が、先ほどまでいた話をしてくれたり、私の子供時代のことと孫のことが混じりあっていたりして、話が混乱しはじめた。
食べ物に好き嫌いはないし、明るい性格なので、かなり長生きすると思われていた。
相当な年まで、痴呆の気配もなかったので、急にそのような事態に陥ったのは、テレビの悪影響だと思う。
ラジオは聴覚、書物は視覚を支配しているのに対し、テレビは聴覚・視覚ともに支配している。
それだけ、脳の活動に制約をかけていることになる。
結果的に、自分で考える部分が無くなりテレビに脳を支配されてしまったようだ。
たまに、正気に近い時には昔の思い出話をしてくれた。
楽しい話ばかりだった。
戦後のどさくさ期に、子供三人を育てながら父と必死に働いてきたのだから、つらいことがたくさんあったはずだ。
しかし、母の思い出の中には、つらいことはモザイクがかかって、外に出てこなくなっていた。
楽しい記憶ばかりが残って、母は幸せな生き方をしたと思う。