諦めるという言葉は、自分の願いごとが叶わないため撤退するという意味で使われ、ネガティブなイメージが付きまとう。
しかし、この言葉は‘明らむ’、つまり、‘つまびらかにする’‘明らかにする’が、本来の意味である。
‘諦’という字には、仏教で‘真理、道理’の意味がある。
したがって、本来の‘諦める’とは、「真理、道理を明らかにする過程で、自分の願望が達成できそうにない理由が分かり、納得してそれへの思いを断ち切る」というポジティブなものである。
哲学者・九鬼周造は、偶然性や男女関係の視点から、日本固有の精神構造や美意識「いき」の精神を分析した『「いき」の構造』という名著がある。
九鬼の言う“粋”は「媚態」と「意気地」と「諦め」の3つの要素からなっている。
「媚態」とは、異性との恋愛関係でどうなるかわからない 付かず離れずの不安定な緊張状態である。
「意気地」とは、異性にもたれ掛からない心の強さ、毅然とした態度のことであり、美意識としてのやせ我慢のようなものだ。
そして「諦め」とは、仏教の世界観に基づいた“流転や無常”を前提に“こだわらない”ことをいう。
運命を受け入れ執着心を捨てた、わび・さびにも通ずるこころである。
日本人の好きな‘潔さ’は、‘諦め’の捉え方でいくらでも自分のものにできる。
諦めについて知ることで‘いき’に近づく。