中立と言ってだんまり押し通し

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中立だと言って、会議の場で意見を言わずだんまりを押し通す人もいる。
かならず、中立だからどちらにも与しないと、言い訳をする。
こんな人に限って会議後の反省会、つまり飲み会では盛んに会議の批判を始める。

’中立’とは、意見に偏りが無い状態であり、対立の場では、そのどちらにも与しない第三者の立場に立つことである。
議論の中身に対する中立と、プロセスに対する中立がある。
要するに、どの意見に与するのか、どちらの立場に与するのか、ということだ。

しかし、対立に介入しないことが中立なのか、もしかしたら逃げているだけなのではないか、疑わしい場合もある。
どちらも敵に回したくないための、単なる八方美人とみられることだ。

中立という立場には、道徳的責任を回避した存在と見られる側面もある。
ダンテは『神曲』地獄篇において「地獄の最も暗い場所は、倫理の危機に臨んでも、中立を標榜する者のために用意されている」と述べた。
中立を罪と見なし、神に対して反抗的でも忠誠的でも無い者は神からも悪魔からも嫌われ、地獄の門のすぐ側で死の望みも無く悶え苦しむと言っているのだ。

「両極端を排して真ん中に立ってものを考える」というのは仏教の考え方である。
中立的に観る、独立に観るということである。

要は、個をしっかり確立し、公平な立場でものを見よ、ということだろう。