座右の銘取りあえず「無」としておこう

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たまに、座右の銘について尋ねられることがある。個人的には、「一切唯心造」という華厳経の言葉を座右の銘にしているのだが、説明がややこしいので面倒な時は、無いと答える。これが誤解を招く。書面で尋ねられた時に、無いというつもりで「無」と書くと、禅的な意味の「無」と取られ、相当興味を持たれる。

もともと座右の銘とは、紀元二世紀前後、後漢時代の文人・崔瑗による文章のタイトルである。「他人の短所を指摘するな、自分の長所を自慢するな」から始まる文章で、崔瑗はこれを実際に自分の座る場所の右側に書き記しておいて、いつも戒めとしていたということである。この故事から、いつも心に留めておいて、生き方の参考とすることばのことを言うようになった。

「無」には、物理的な意味と哲学的な意味があるようだ。物理的には、 何もないこととか、存在しないことととらえられ、「有」の対義語とされている。哲学的には、存在の否定・欠如、特定の存在がないこと。また、存在そのものがないこととされている。さらに、一切の有無の対立を超え、それらの存立の基盤となる絶対的な「無」があり、禅で経験・知識を得る以前の純粋な意識とされている。

宇宙の始まりについて、「無」から生まれたという説もある。ここでいう「無」とは、物質も空間も、時間さえもない状態である。

「無」とは 、考えれば考えるほど分からなくなるもののようだ。