自分を犠牲にするほど熱心に仕事に打ち込むさま、または、体がやせるほど苦心・苦労することを‘骨身を削る’という。
「古人刻苦光明必ず盛大なり」という言葉がある。
中国・宗時代の禅僧・慈明禅師が『禅関策進』に残している言葉だ。
‘刻’には、‘削る’という意味があり、刻苦には骨身を削るような苦労といういみが含まれる。
昔の人は、激しい苦しみに耐えて大いに光り輝くものを得られた、という内容である。
慈明禅師は、修行時代に夜に坐禅して眠くなると、この言葉を思い浮かべながら、錐で股をさして眠気を払って坐禅をしたという話が残されている。
白隠禅師は、その時の慈明和尚の言葉、「古人刻苦光明必ず盛大なり」を一日三回唱えて修行を行った。
白隠はこの言葉について、苦しみを刻み、耐えて耐えて、耐え抜いたその積み重ねによって、その先には明るい光が盛大に輝く、と解説している。
どんな境遇にあっても自分の苦しみを境遇のせいにせず、今、自分がいる場所でしかできないことを捜し、そこでしか得られないものを見つけることが随処に主となることである。
「随処に主と作(な)れば立処皆真なり」というのは、臨済宗の始祖・臨済義玄の言葉であり、どこに居ようとも自分自身を見失わなければ、いつどこでもそこに真理が存在する、ということである。
そのためには、まず厳しい修行に耐えることから始まる。