口達者手足も達者で嫌われる

川柳徒然草
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いくつになっても、元気なことは良いことだと思っている。
しかし、’年寄り’が元気過ぎるのは嫌われることもある。
祭りごとや、趣味の会などで必ず口を出す’長老’がそのよい例だろう。
しっかり’若手’の言うことを聞いてから、意見を述べるのなら良いが、俺の時代はこうした、という前例にしがみつき、それを変えることに抵抗する。
確かに、前例にはそれなりの良さもあるが、時代に合わせた変革も必要だろう。
’年寄り’たちは、それが気にくわない。
かくして、会の進行を遅らせ、陰で嫌味を言われることになる。

老年学の提唱者ロバート・バトラー博士は「長生きの価値はその長さにあるのではなく、それがどのように活用されるかにある」と語っている。

社会に何らかの居場所を見つけ、元気に活動している高齢者は多い。
永年の経験に裏打ちされた豊富な知識は、信頼され尊重されている。
しかし、日本の高齢者は切れやすいと言われている。
労働への意識の違いが、根底にあるのではないだろうか。

キリスト教文化圏では、労働は神から与えられた罰則である。
したがって、労働からの解放は、罪の意識から逃れ苦痛から逃れることである。
東洋の文化圏では労働は神への奉仕であり、善的行為である。
出来ればいつまでも、労働の機会を持ちたいと願っている。
ところが、現代の社会では好むと好まざるとにかかわらず、ある時期が来たら労働の第一線から切り離される。

心理学者マズローによれば、人間の欲求には「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5段階がある。
そして、これら5つの欲求にはピラミッド状の序列があり、低次の欲求が満たされるごとに、もう1つ上の欲求をもつようになる。
労働の第一線から離れた人は、社会的欲求の段階より上が満たされにくい。

新たな社会との接点を見出し、その中で自分の位置を確立し、認められることが生きがいにつながる
いつまでも、口も体も達者なのは多少煙たがれようが、その人にとっては、幸せなことなのだろう。

 


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