無駄たくさん詰めて人間らしくなる

川柳徒然草
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無駄というのは、役に立たないこと余計なことであり、効果・効用がないことを言う。
単的に言うと、お金や、時間、資源、労力、命などのコストが有効に使われないということである。
‘有効に’ということだから、自分の目的や目指しているものと違うものということになる。
つまり、無駄か無駄ではないかということは、その人の価値観によって決まるということだ。
結局、無駄か無駄ではないかは、自分が決めるものということになる。

現代社会では、効率性や合理性を求められる傾向が強く、無駄を排除することが美徳とされている。
しかし、完璧さや合理性だけを求めることは、自然との調和を乱し、ストレスや不満を生む。
そして、人間らしさを失わせてしまう。

無駄や不必要な部分を受け入れることは、人間らしさや自然の摂理に沿った美しさを表現するために、必要なことかもしれない。
完璧さや合理性といったものだけではなく、無駄や不必要なものがあってこそ、人間らしさが表現されるのではないだろうか。
つまり、完璧でなく無駄があること、何か欠けているものがあることによって、‘人間らしさ’が表現されるということだ。

人間にとって、無駄や不必要なものがあることということは、人間らしさを表現するために重要な要素となっている。
無駄をたくさん詰めることで、ある程度の不完全さや独自性が生まれ、人間らしさが出ると考えてよい。

人間関係においても、無駄や不必要な部分があることは、重要な要素となる。
完璧で合理的な関係だけでは、相手との深い結びつきや信頼関係は生まれにくく、人間らしい交流や心のつながりが失われてしまいかねない。
無駄や不必要なものを受け入れ、自然な流れに身を委ねることで、人間らしい交流や心のつながりが生まれる。
そこから、相手を思いやる気持ちや、優しさや温かみが生まれる。

「無駄方便」という言葉がある。
一見無駄のように思われることでも、使い方ややり方次第では案外役に立つこともある、ということだ。

働きアリは、いつもせわしなく働いているように見える。
しかし、全体のうち約2割のアリは働かず、あちこちをふらふらと歩き回っているだけだということが観察されている。
ところが、2割のふらふら組は、巣から餌場への新しいルートを見つけたり、新たな餌場を発見するといった仕事をしているのだ。
一見ふらふら遊んでいるような‘無駄な2割’が、アリ社会の長期的な存続のためには、決して無駄な存在ではないということである。

自然な時間の流れや様々な余白、世の中にあふれかえっている装飾類など、無駄や不必要なものをそのまま受け入れ大切にすることが、人間らしさを表現する上で必要不可欠なものと言えるだろう。
全てのものは、自然と調和し、必要なものとして存在しているのだ。

世の中に、’無駄’というものは存在しない


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